<ロータリー万葉50首>


“ニイナの歌”

 天平八年(736年)の6月、新羅国へ派遣される使人の一行を乗せた船(総勢200人くらい)が難波の港を出発します。
 当時の船旅は、潮の干満や風を利用しますから、門司まで約一カ月近くかかりました。今回の旅は、かつての日羅の親密な関係は薄れ前年新羅からの使節を追い返したりしていますので、終始不安な旅でありました。まず、最初に襲ってきたのが周防灘に向かった時、逆風(台風)にあい、遭難したことです。船が山口県佐婆島を出てまもなくです。激しい風と大波をくらって漂流しました。国東半島の姫島の付近まで流され、翌朝になってようやく風がおさまり漂着したのが豊前国下毛郡分間の浦でした。(現在の中津市田尻の海岸)ここで船の修理や使人たちの心の痛手をたてなおすため10日間ぐらい滞在しました。その時に作られた歌が8首あります。今回のロータリー万葉歌は、その中の一首です。

   鴨じもの浮き寝をすれば蜷の腸
          か黒き髪に露ぞ置きにける

 

 作者の氏名は未詳。「鴨じもの」の「じもの」というのは「〜でもないのに、〜でもあるように」の意。「浮き寝」は、船の上で仮泊することで当時は上陸しないで船上で寝ることが多かったようです。「蜷の腸」は、蜷は、ニイナのこと。ニイナの腸(はらわた)は真黒いので、「か黒き髪」にかかる枕詞。全意は、「鴨でもないのに鴨ででもあるように海上で浮き寝をすると、黒い髪の毛に露が降りている」といった歌です。
 ここ中津の沿岸には、このころからニイナがたくさんとれたのでしょう。おそらく滞在中の酒のさかなに供されたにちがいありません。
 船上で、つれづれなる仮泊を慰めるため宴会が開かれたのでしょう。そういう席の酒のさかなに出たニイナの黒いはらわたをみて、自分の黒髪にみたて、その上に朝露か置かれていてキラリと光った。写実的な歌にもなっています。
 この旅は、当時九州で流行した天然痘が猛威をふるい、大使阿部継麻呂以下、多くの死者がでました。予定の日程より大幅にずれて副使大伴三中らわずか40人くらいが翌天平九年の3月28日に帰朝して使者の状況を報告したといわれています。いずれにしても中津の海岸のニイナが万葉に歌われているのは面白いと思います。


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