靹の浦の歌
今回は万葉集として瀬戸内海の鞆の浦の歌を紹介します。鞆の浦というのは現在の広島県福山市鞆町にある海岸です。ここは、古くから瀬戸内航路の潮待ちの港として栄えてきました。弁天島や仙酔島などの島々が浮かび、のどかな名勝地としても知られています。
天平二年(730年)3年間の九州都府の長官(太宰の師)を終えた大伴旅人は、奈良の都に向かって帰任する時、この鞆の浦に寄って次の歌を作りました。
吾妹子が見し鞆の浦の天木番樹(むろのき)は
常世に有れど見し人ぞなき
「わが妻が私と一緒に見た鞆の浦のムロの木は今も変わらずにあるが見た妻はもはやいない」という意味になりましょう。旅人が九州都の長官として太宰府に赴任していったのは神亀4年(727年)のl2月、妻も同伴してこの鞆の浦で長寿の木といわれるムロの木を眺めて、お互いに長生きしましょうと言いかわしました。それが、翌年の初夏のころ妻は太宰府の長官館で亡くなりました。3年後の今、再びこの鞆の浦のムロの木を見た旅人の哀感がしみじみと伝わってくるような歌ではありませんか。ムロの木は、ひの木科の常緑高木、高さ10メートルにもなり、長寿をつかさどる神の木といわれています。
ところで、この鞆の浦ですが、ここが港としてよく使われたのは、豊後水道に入りこんだ黒潮が佐賀関の速吸(はやすい)の門を急潮流で通過して一気に瀬戸内海を上り広島県の鞆の浦あたりまで貫流するからです。九州方面から関西地方に行く船は、この潮流に船を浮かべますと、なんの動力も使われなくてもさっと鞆の浦あたりまで船を進めてくれるのです。古代から船人たちは、経験の知恵で潮流をうまく利用したのです。江戸時代の参勤交代もこの潮流動力をみんな利用しました。豊後水道沿岸の大分県内に、江戸期の各藩の飛び地が多いのはそのためです。熊本の加藤清正も実にうまく利用しました。熊本から佐賀関まで出でくる道に当るところが全部肥後領になっています。久住→野津原→戸次→鶴崎→坂の市→佐賀関と道筋がすべて肥後領ですから、みごとなものです。福岡を廻って周防灘を渡るよりは遥かに近くて動力が不要なのです。
この鞆の浦で、豊後最大の画人竹田と大学者頼山陽が初めて邂逅して生涯の友交を続けてゆくきっかけをつくることにもなったのです。
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