<ロータリー万葉50首>


白露の恋

 今週の土曜日9月7日は暦の上で「白露」といいます。このころから秋の気配が深まり野草に宿るしらつゆが秋の趣をひとしお感じさせます。今日は笠女郎の白露の歌を紹介します。笠女郎は大伴家持に激烈な恋の歌を29首贈っています。その中の1首、

 わがやどの夕影草の白露の
     消ぬかにもとな思ほゆるかも

 「私が家の庭の淡い夕日の光の中にある野草の上に置いた白露といっしょに私の心も消えいらんばかりにむやみにあなたのことが思われることですよ」という意。「夕影草」という言い方は笠女郎の造語です。みごとな表現で彼女の非凡さがうかがわれます。
 これまでの解釈は、「白露の」を「その白露のように」といった比喩(たとえ)でとらえていますが、当時の人たちは比喩ではないのです。夕影草の上において消えてしまいそうな白露が自分の心と全く同じに感じられるのです。白露が自分そのものなのです。自然と自己が一元の生命」なのです。芭蕉は「花を見て花となる」といいました。花をこっちから見るのでなく、花と自分が一つになってしまっているのです。最近、環境問題でいわれている自然共生の哲学です。
 この日本語の助詞「の」というのは実に面白いのです。石川啄木の有名な歌、

 東海の小島の磯の白砂に
     われ泣きぬれて蟹とたわむる

 ここにも先の歌と全く同じように「の」が使われています。広い東北海→その中の小さな島→その磯辺というように時間と空間が段々と小さくなっていっているのです。カメラでいえば、広い所から段々小さい所へ焦点がしぽられてゆく時間と空間を表す「の」なのです。日本語の助詞「の」の持つ独特の深淵な意昧です。そういえば見合いの場で決意を迫られた女性が畳の上に「の」の字を指でしきりに書いたのにも極めて深い潜在意識があったのでは。


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